「治療的乗馬とは」
はじめに:馬をパートナーとした活動と「障害」
障害のある人々に対して馬を用いたリハビリテーション、教育、スポーツ、レクリエーションが注目されるようになり、「乗馬セラピー」、「乗馬療法」といった言葉にふれる機会が増えました。
これらは、障害のある人々の心身の健康に寄与することを目的とした、乗馬を含む馬をパートナーとした多様な活動を意味しています。
この活動は特に第二次世界大戦後、「障害者乗馬」(Riding for the Disabled)あるいは「治療的乗馬」(Therapeutic Riding)と呼ばれ、取組が行われてきました。
1.歴史的背景
人と馬との関係
ギリシャ神話に登場するケンタウロスやペガサス、ユニコーン、中国の格言「塞翁が馬」、日本のご神馬や馬頭観音そしてオシラサマ伝説などは、私たち人間にとって馬という動物がどのような存在だったかを考える材料を与えてくれます。動物学者グランディン,T.は、「体重50キロ以上で、家畜化されていてもよさそうな大型哺乳動物は148種類いるが、実際に家畜化されたのは、わずか14種。人間はもっとたくさん飼いならそうとしたが、うまくいかなかった。14種のうち、世界各地で重要になったのは、牛、豚、羊、ヤギ、馬の5種だけ。野生の動物が家畜の「候補」になる重要な条件のひとつは、生まれつきかなり社交的なこと。」と述べています。5種の動物のなかでも、馬は独特な位置を占めています。いずれも、食の対象であった時代から使役動物としての役割をも担うという変化をたどるのですが、馬は加えて人への「伴侶性」という側面が強調されていくことになります。
馬のもたらす人の健康への寄与 ―領域の成立―
このような長い歴史や特徴を背景に、近代から現代にかけて、人の健康に乗馬を積極的に活かしていこうという試みが始まります。ドイツに残っている図版から、18世紀には、広い部屋に天井から木馬をつるし、季節や天候にかかわらず「乗馬」ができる装置を作った例のあることがわかっています。また19世紀末には、馬の背中の動きを模した手動の機器がウィーンで試作されています(Riede, D)。これらの系譜は、現代の健康機器「乗馬シミュレータ」開発につながっています(参考:「ジョーバ」, Panasonic)。
第二次世界大戦後になると、乗馬のもたらす心身機能への利点を意識した実践と科学的な根拠の追求が行われ、一つの領域として考えられるようになります。ポリオによる肢体不自由があったリス・ハーテル(デンマーク)のヘルシンキオリンピック(1952)とメルボルンオリンピック(1956)での銀メダル獲得は、この流れを強く押し進めることに寄与しました。彼女は、馬の持つ力を多くの人たちに伝えました。
国際的な広がり
1974年にパリで開催されたこの領域についての初の国際会議では「身体障害のためのリハビリテーション」「知的障害のためのリハビリテーション」について話し合われました。また、その2年後にバーゼル(スイス)で開催された第2回国際会議のテーマは「乗馬を通してのリハビリテーション-乗馬療法(Rehabilitation durch Reiten – Reittherapie)」、1979年にワーウィック(イギリス)で開催された第3回国際会議は「障害者のための乗馬(Riding for the Disabled)」、そして、1982年にハンブルグ(ドイツ)で開催された第4回国際会議のテーマは「治療的乗馬(Therapeutisches Reiten)」でした(Riede, D. 1986, Klüwer, B. 1994)。この国際会議は1985年に「国際障害者乗馬(Riding for the Disabled International)」、1992年にはベルギーの法律下において国際的な非営利組織であることが承認され「国際障害者乗馬連盟(The Federation of Riding for the Disabled International AISBL;FRDI)」として国際的な協働を促進する活動を行っていきます。
註)AISBL:Association internationale sans but lucratif(ベルギー法における国際NPOを意味する。)
二つの源流
ここには、現在世界中で行われている障害のある人たちを対象とした馬の活動に至る二つの源流があります。
一つは英国を発祥とし世界に普及していく「障害者乗馬(Riding for the Disabled)」、もう一つはドイツ語圏で普及していく「治療的乗馬(Therapeutic Riding)」です。前者は、障害のある人々の生活の質の向上と社会参加を重視し、チャリティの思想を背景に、馬事愛好家によって活動が展開されてきました。後者は、医療や心理・教育など「人の心身の健康」に関わる専門家達がそれぞれの専門領域の中に乗馬の特色を導入するという観点での実践が行われてきました。1969年には英国で「障害者乗馬協会(Riding for the Disabled Association;RDA)」が、1970年にはドイツに「治療的乗馬協会(Kratorium für Therapeotishes Reiten e.V. 後のDeutches Kratorium für Therapeotishes Reiten e.V.;DKThR)」が設立されました。なお、米国でも1969年に「北アメリカ障害者乗馬協会(North American Riding for the Handicapped Association;NARHA 後のProfessional Association of Therapeutic Horsemanship International:PATH)」が設立されています。
1976年には、イギリスのRDAが、障害者乗馬に関するハンドブックを出版します。ここには、RDAの歴史と組織、活動場面におけるスタッフの役割、障害と乗馬活動、そして馬具についての記述があります。また、翌1977年にはドイツにおいて「治療的乗馬 医療、教育、スポーツ(Therapeutisches Reiten Medizin, Pädagogik, Sport)」(Heipertz, W.編)という1冊の本が出版されます。内容は、医療と教育、障害者スポーツそして治療的乗馬のための特別な乗馬学で構成されており、この中に示されたダイヤグラム(図1)は、以降近年まで国を超えてこの領域を考える一つの指標になってきました。
2.乗馬から多様な活動へ -領域の多様化-
近年、世界の様々な地域で、また人の心身の健康に関する様々な領域からの馬をパートナーにした活動が展開される過程で、この領域について様々な表現がそれぞれの考えで用いられるという状況が生まれました。特に、「治療的(Therapeutic)」そして「乗馬(Riding)」という表現が混乱をもたらしている側面があります。Heipertzのダイヤグラムからわかるように、ここで言う「治療的(therapeutic)」は「医療」「教育」「スポーツ」を含んだ概念です。しかし、この言葉は、多くの人たちに「医療」を強く連想させます。また、「Riding(騎乗する)」だけではなく、馬にかかわる様々な活動が取り入れられるようになりました。
1998年、ドイツのミュンヘンで開催された「第3回ヨーロッパ治療的乗馬大会(3rd European Congress of Therapeutic Riding)」において、この領域は「乗馬」のみで考えられるのではなく、馬のいる環境全体の取組としてまた個別対応ではなく集団への対応として見直される必要がある、とするフランスからの発表がありました。開催国であったドイツでは、子ども農場での取組や社会性に困難や課題がある青少年への取組などこれに重なる実践は既に多くありましたが、参加者の多くの関心の中心は「乗馬」そのものにあり、当時この観点は必ずしも受け入れられなかったと感じます。しかし、その後各地での活動は間違いなく「乗馬」の活動を越え、個別対応から集団を意識したものに拡がっていきます。
また、「障害」の表現についても、国際的な「障害」のとらえ方の変化によって議論がなされるようになりました。世界の多くの国々が批准している「国際連合 障害者の権利に関する条約」によれば、「障害とは非インクルーシブな社会と個人の間の交互作用の結果である」とし、様々な背景はあるかもしれないが、「ハンディキャップ(handicapped)」や「身体的に、あるいは知的に欠けている(challenged)」は条約の理念には沿わないとし、「障害のある人々(persons with disabilities)」との用語を提唱しました。
これらの変化を受けて、「国際障害者乗馬連盟(The Federation of Riding for the Disabled International AISBL;FRDI)」は、「教育と治療における馬に関する国際連盟(The Federation of Horses in Education and Therapy International AISBL)」と名称を変更をしました。また、「障害」のある人々をクライアントとしていたこの領域は、従来の概念である「障害」の有無にかかわらずクライアントを考える、「インクルーシブ」な領域として活動を模索していくことになります。
このような過程で、この領域を扱う人、対象となる人々についても変化を見せます。初期には「乗馬」のもたらす運動機能への影響や寄与に関心の中心があったところから、乗馬を含めより広範な馬とのふれあいがもたらす人の精神機能への影響や寄与に人々の関心が寄せられるようになってきました。それにより、「心理療法における馬」「作業療法における馬」「教育における馬」「理学療法における馬」といったように、「人の心身の健康に関わる専門領域」が「馬の活動の特色を導入し実践と検討が行われる」という状況が生まれてきます。これは、Heipertzが示したダイアグラムがより細分化・深化したともいえるでしょう。また、対象も医療における結節性硬化症や脳性マヒを中核とした運動機能障害への適応、対人関係や社会性に困難や課題がある人々を対象にした治療教育・心理に関する軽乗、から高齢者や精神疾患、退役軍人や災害等によるPTSDのある人への適応など、多様な広がりを見せています。
この領域は、各地の様々な取組によってこれからも様々な広がりと進化をしていくと思いますし、それに寄与する活動をしていきたいものです。
【参考・引用文献】
1)グランディン,T.:動物が幸せを感じるとき,NHK出版,2011
2)教育と治療における馬に関する国際連盟(The Federation of Horses in Education and Therapy International AISBL):https://hetifederation.org/
3)The Riding for the Disabled Association:The Handbook of The Riding for the Disabled Association, 1976
4)ドイツ治療的乗馬協会:https://www.dkthr.de/
5)障害者乗馬協会(英国):https://www.rda.org.uk/
6)国際治療的ホースマンシップ協会(米国):https://www.pathintl.org/
7)Heipertz, W.:Therapeutisches Reiten Medizin, Paedagogik, Sport, Franckhs Reiterbibliothek, 1977
8)Riede, D.:Therapeutisches Reiten in der krankengymnastik, Pflaum Verlag Muenchen, 1986
9)Klüwer, B.:Die Einsatz des Pferdes als medium der Selbsterfahrung im Kontext psychomotorischer Entwicklung und Therapie, 1994
10)リス・ハーテルについて:
https://www.fei.org/stories/lifestyle/horse-human/olympic-heroes-lis-hartel-equestrian-dressage
https://olympics.com/ja/athletes/lis-hartel
https://www.olympedia.org/athletes/11350
11)乗馬シミュレータ:https://panasonic.jp/fitness/p-db/category/joba-fitness/lineup.html
2021.08.01 ©JTRA